09.06
スケール
仕事を通じて、
様々なスケールを見させていただいてきました。
社会への影響度、
扱うお金の大きさ、
関わる人の数、
行動する範囲といった、
スケール感ですね。
大小、浅深、本当に様々なものを見させていただいてきていたなぁと思います。
(有名がどうとか、お金持ちがどうとか、そういうのにいちいち反応するとか、そんな話しじゃありません)
その振れ幅の例えを分かりやすく言うならば、
初めてグローブを持った小学校1年生とハッピーなおしゃべりをした5分後に、
メジャーリーグの選手とファンタスティックなおしゃべりをするような感じか。
そんな感じを、
もう20年も体験してきました。
もちろんその間に、
「なぜ、こんなに振れ幅のあるものを見ているのだろうか?」と、
問いを持ってみたこともあったのだけど、
そこに対して見出してきた意味は、
「たくさんの人の現実、足下、生きようとしている世界を知ることができて、
人の気持ちがわかるようになれるんだ」
ということとしてきていました。
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でも、ここ最近は、僕にとっての意味合いが変わってきました。
「人の気持ちがわかることは、もちろん大切だ。
それに加えて、スケール感によって違う責任の量を
認識できなきゃいかん」と、しています。
スケールの大小で、良し悪し優劣が決まることは絶対にないと思います。
でも、
それぞれのスケール感で、
その生きている世界で、
そこでしか背負うことができない責任がある。
なんなら、背負わなければならない責任がある。
仮に、大小という言葉を使うなら、
大のスケールでは、小のスケールで発生する責任を背負うことはできない。
逆も然りです。
その、ひとりひとり、ひとつひとつの責任の部分をしっかりと捉えた上で、
人に対して、何かを表現することができるかどうか。
そこんとこへのチャレンジスピリッツを持って、
お伝えさせていただいています。
これは、まさしくチャレンジです。
僕にとってですが。
少し、いけてる自分になるためのチャレンジです。
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で、落とし所は何かということ、
昔と同じことを見ているはずなのだけど、
「自分の認識が変化する」ことによって、
「昔とは違う答えを手に入れる」ことができるようです。
そして、その答えは、
新しいチャレンジを発生させてくれるということです。
出来事、現象、理不尽といった、
いろいろな場面を体験し、見るけれど、
昔と同じ答えにしちゃいかんですね。
いろいろと変わっているのだから。